今回の記事は、高校の修学旅行以来の平和祈念公園に行ってきたので、展示内容についてちょっと紹介します。なお、私歴史詳しくないし、語彙力もなく表現も下手です。語弊もあるかもしれません。なので概要だけ掴んで欲しいし、異なる意見とかあったらご自身で情報発信したら良いと思います。

平和祈念公園ねぇ。国頭みたいな沖縄北部に住んでいるとなかなか逆に行く機会ないな。

多分修学旅行とかじゃないと改めて行こうってなりにくいよね。でも内容結構充実してるから時間あったら行ってみて。
それでは、どうぞ!
ふと“行こう!”と思った

この日は休日。そしてスッキリ爽快、朝早く目が覚めてベランダでやんばるの大自然を見ながら思いました。

そうだ!平和記念公園に行こう!
現在は単身赴任状態な私。一人でも自分のペースで楽しめるのは資料館、博物館系しかありません。せっかくのチャンスなので行ってみることにしました。
そして行ってみたいと思う理由として、もう1つ修学旅行時の苦い思い出もあります。聞いてください(長いです)。
確か高校2年生のころ、修学旅行で沖縄、そして平和祈念公園を訪れました。そこで確かおばあが戦時中の話をみんなの前でしてくれる機会がありましてですね。パイプ椅子に座りながら筆記用具を持って座っていました。メモを取れるように。
そしたら暑さもあって疲れていたんですかね、ついウトウトしてシャープペンシルを落としてしまいました。居眠りです。一瞬だけど。
ハッと気づいて、先生もツンツン背中を押して起こしてくれたけど、もう罪悪感たるや。その後も気分が優れず。今日まで10数年ずっと頭の片隅で残っている苦い思い出です。
車で約2時間ドライブ
え〜、前段が長くなりましたが、私の住んでいる沖縄本島最北端の国頭村に対して、平和記念公園は本島最南端にあります。
距離にして105km。結構遠いですね。AmazonミュージックでWANIMAの音楽をガンガンかけながら約2時間ドライブします。
あっちでオロオロこっちでオロオロ
さて、観光情報誌も持っていないし、南部から結構遠い国頭村に住んでいるので、なんの事前知識もなく訪れてました。
そして心の中で思いました。

(そうか、平和祈念公園ってとりあえず“公園”なのか!)
当たり前ですね。でも私は“平和祈念公園”を目指して訪れましたが、本当に見たいのは“平和祈念資料館”だったようで。駐車する時点であまりに広い園内で迷い、オロオロします。
あっちかな、こっちかな?と思いつつ


やっと発見。

高校のとき来てるけどこんな建物だったけな〜?と思いながら、施設内に入ります。

300円で常設展示場へ入りますが、安すぎてびっくりです。
平和祈念資料館の常設展示内容
さて、常設展示は写真撮影禁止です。なので、記憶とメモを元にざっくり、そして印象に残った点を紹介します。
1 戦前の時代背景
沖縄がどのようにして日本本土と関わるようになり、戦争に突入していくのか。当時の世界情勢と一緒に紹介されています。
興味深くて覚えている点はここ。
- 1870年頃から琉球(沖縄)、千島・樺太、小笠原諸島が日本として領有を宣言するかなんかして朝鮮半島の方まで広がっていくところ。領土拡大していく時代背景の中で琉球藩→沖縄県が誕生。
- それから朝鮮を巡ってロシアと争って日露戦争。ソテツ地獄とか経済が困窮。沖縄経済も大打撃を受けて、南洋に進出&移民。多分今のハワイとかにいる沖縄系の移民の人たちに繋がっている。
2 悲惨な戦時中

パネルでの展示のほか、沖縄の地図を元にどのように米軍が侵攻していったか、そしてその当時の動画、戦時中の写真などが紹介されています。
興味深くて覚えている点はここ。
- “日本国民”となるべく、沖縄や植民地で皇民化政策。学校で日本語教育がされる。
- 就職で差別されるし、沖縄の方言や固有の苗字を改めるように。ちなみに苗字は、島袋→島、島田、東恩納→東(あずま)、知念→本田、小橋川→小川と変化。
- 国頭では戦争の話をあまり聞かないんだけど、あっとゆう間に責められたというのは正しいよう。すぐに戦後の生活が始まったと僅かに北部のことが紹介されていた。
- 日本本土線を有利にするべく最後まで逃げた場所が沖縄本土の南部。イメージするような火炎放射器でぶぁ〜!っていう姿が上映されていました。
- 数々の遺体など、戦時中の写真は当然酷いんだが、米兵が亡くなった戦友を悲しんでいる様子がまた印象的でした。
3 証言展示
実際の県民の証言がいくつもテーブルに置いてあります。
糸満市のお一方の話だけ読みました。
日本本土から来た警官みたいな人に抵抗したら母親や弟、妹が腹や首を次々と斬られ殺された。自分も自殺しようと思ったが怖くてできなかった、そんな話でした。
酷すぎます。
4 戦後の復興
パネル展示のほか、映画のスタジオみたいに昭和の街並みが再現されたゾーンがありました。
興味深くて覚えている点はここ。
- スタジオは単純に分かりやすくて面白い。
- ある米兵による証言内容。人殺しの訓練を受け、さらには妻に離婚を申し出されて自分の人生を嘆く別の米兵に同情しながら、クラブで遊んでいる若い米兵を見て嘆いている。米兵の複雑な心境が表現されている。
- 米軍の訴訟問題。交通事故などの場合でも米兵が無罪になる“不当な裁判”が多かったとのこと。
- 日本本土に復帰していく中で、歓迎する人もいれば反対する人もいて、1972年当時は異様な雰囲気だったとのこと。一般庶民の生活レベルでの変化は、主に通過がドルから円に。右側通行から左側通行に変わった点で、交通事故が当時絶えなかったそう。
十分すぎる展示を見終えると、そこは建物の2階。ガラス一面の窓からは美しい海が広がっていました。

常設展示全体の感想
本当に300円の内容ではありません。とても内容が充実しています。沖縄の視点もありながら、客観的に当時の世界情勢とか時代背景、そして戦争の惨さはもちろん、複雑な米兵の気持ちも時々表現されているのが私的には目を引きました。
感想を一言でまとめるなら、
“誰も戦争したかった人はいない”
ということです。
当時のいろんな背景が国を戦争に向かわせ、人が巻き込まれていたと思います。
見る人によっていろんな考え、気持ち、思いがあると思います。時間のある方はぜひ訪れてみましょう。
外には平和が広がっていた
中にいて忘れてましたが、外は公園。
本当は世界のあちこちでまだ戦争はありますが、とりあえず今この地は平和であることを思い出させてくれます。




各県の慰霊碑
さて、これでメインどころは見終えて、そろそろご飯の時間。
なんですが階段があったので登ってみます。

青森県の碑
なんか石碑がありますね〜。

でもよく見ると、青森県の文字が。

青森の方々は当時フィリピンなどの南洋に出兵されていたみたいです。今は亡き青森の祖父母からは戦時中の話をあまり聞くことができなかったけど悔やまれます。
他にも回ってみました。

ぱっと見8割近くの県の慰霊碑があります。
神奈川県の碑
私の出身、神奈川県の碑も見てきました。



う〜ん、青森みたいに戦争とどう関わったかは記載ありませんでした。
こちらが塔。

なんか神奈川らしくモダンな感じにおさまっていますね。
もうさすがに1時ごろになりましたので、平和に感謝しつつお昼ご飯を目指して出発しました。
まとめ
伝わりましたか?私の文章センスがないせいでこれっぽっちも表現できてない気がするんですが、1%でも興味を持ってもらえたら嬉しいです。2時間かけてでも平和祈念公園、訪れた甲斐がありました。
ありがとうございました!
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